エルサレムの丘に「ゴールデンブック」という碑が建てられている事をご存知でしょうか。この碑には、ユダヤ人出身で世界的に傑出した人物の功績を永遠に顕彰する為に名前が刻まれています。そこに、6名の日本人の名前が刻まれています。安江仙弘陸軍大佐・樋口季一郎陸軍中将・小辻節三博士・内田康哉外務大臣・手島郁郎氏・古崎博氏です。ユダヤ人を救った人としては一番有名な方は杉原千畝氏ではないかと思うのですが、ユダヤ人から感謝されているこの6名の方々は、日本ではほとんど無名と言っていいのではないでしょうか。この中から、教科書には載らない日本人として、樋口季一郎陸軍中将と犬塚惟重海軍大佐をご紹介します。

【樋口季一郎陸軍中将】

昭和13年(1938年3月)満州国ハルビン市で特務機関長を務めていた樋口少将のところに部下が、満州国と国境を接するソ連のオトポール駅で、ナチスの迫害から逃れてきたユダヤ人約2万人が、満州国に入れてもらえず立ち往生していると告げに来ました。しかも、気温はマイナス30度の極寒で、飢えと寒さで凍死者が出はじめています。

満州国がユダヤ人入国を拒否したのには訳がありました。満州国は日本と親密な関係にあり、その日本とドイツは同盟関係にある為、ユダヤ人を入国させるとドイツ側から抗議を受ける可能性があったからです。しかし、ハルビンユダヤ人協会会長のカウフマン博士の強い要望に、樋口少将は、何かあれば全責任は私が取ると言って、松岡洋右満鉄総裁に連絡をして、特別列車を運行させました。こうして、すべてのユダヤ人2万人が救出されました。

【犬塚惟重海軍大佐】

戦時中、ビザがないユダヤ難民でも上陸できたのは、世界で唯一、日本海軍が統治していた上海だけでした。ここにユダヤ難民1万8000人が押し寄せました。同盟国のドイツから、ユダヤ人虐殺の為に様々な提案を受けましたが犬塚大佐は全て阻止しました。そのことで、あるユダヤ人女性は「大戦中でも上海は楽園でした。」という誌を残しています。ところが、1942年に犬塚大佐が転勤した後、ドイツはマイジンガー大佐を上海に派遣し、「外国に居住するすべてのユダヤ人は無国籍とされ、今後いかなる保護も与えられない。」と通告し、日本軍にユダヤ人を引き渡せと迫ってきましたが、上海の日本領事や軍人達は断固拒否し、終戦までユダヤ人達を守り通しました。犬塚大佐は、ユダヤ人の為の居留地を満州に作ろうとする河豚計画を立てていたとも聞きます。

日本は人道主義の観点からすべてのユダヤ人を救おうとしている頃、中国国内では、サッスーン財閥や宋家は錬金に勤しんでいました。これに、他国もあいのりし、日本だけがユダヤ人を助けていたということが後の史料で明らかになりました。ところが、1937年支那事変が起きたことで、サッスーン家は身の危険を感じ、アメリカに渡った事から資産は日本に没収されました。この事を恨んだサッスーン家はアメリカでにプロパガンダを行うようになり、未だ日本が世界で貶められる原因を作ったという話は、また今度書きます。

いずれにしましても、杉原千畝さんが「命のビザ」が発行できたのは、受け皿となった樋口季一郎少将や犬塚惟重大佐がいたから出来たとも言えるのに、このお二人の事はまったくと言っていいほど紹介されません。ゴールデンブックに刻まれているにもかかわらず。(犬塚惟重大佐は打診された時、「私は天皇陛下の御心を体して尽くしたのだ。載せたければ陛下のお名前を書くように。」と言って断った。)

杉原千畝さんと樋口季一郎少将・犬塚惟重大佐の違いは民間人か軍人かです。つまり、軍人の美学は伝えない。それは、戦争を美化する事に繋がるからという事です。誠に馬鹿げた事です。なにが馬鹿げているかというと、GHQによる占領政策の「神道指令」の呪縛から未だに抜け出せていない事にあります。これらの事は現在勉強中ですので、まとまりましたらアップします。

いずれにしましても、教科書に載らない偉大な日本人はまだまだいます。これからも、ここで紹介していきます。

尚、内容は服部剛先生の「先生、日本ってすごいね。」から引用いたしました。お薦めの一冊です。是非、読んで下さい。

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